UNBUILT
P R O C E S S I N G

渋モ 読書メーター「日本語のこころ」

言葉を使う上でどのような考えに基づいていますか?

いきなり上から目線ですみません。渋モです。

人を動かす言葉ってあると思うのですが、それを意図的に考えて発すること、表現することは

プラスにもマイナスにも大きな働きをすると思います。

もちろん発信側と受け手側の立場などありますから受け止める側にとっての印象は千差万別でしょうが。

自分の敬愛する評論家(学者ですが。。)の方に渡部昇一さんがいらっしゃいます。

ご存知の方も多いかと思いますが元上智大学の名誉教授で英語学者。今は故人になられた方です。

この方の著書に「日本語のこころ」という題名の新書があり、この中で言われた事に当時大学生だった

自分はひどく感銘を受けて今でも時々引っ張り出しては該当の章だけ読んだりしています。


1章「大和言葉と外来語」がそれなのですが、要約すると日本人の魂を動かし感じせしむのは外来語ではなく

大和言葉であるという事を現代のフォークソングの歌詞を入り口として俳句、和歌の世界まで遠望して述べられています。

入り口ではある言語学者が自身の結婚披露宴で披露したフォークソングの歌詞が大和言葉であった事に感銘を受ける様

が描写され、音読み、訓読みの差による日本人の受ける印象の違いについて縷々述べられており、訓読みこそ日本民族が

有史以前から口伝えに使い続けた言葉でありそれゆえに日本人の魂の源に直接根をおろしている言葉であると言いつつ、

逆に外来語としての音読み言葉についてはこころの状態が外向きな時は外来語が多いという点を述べています。

論はこの後俳句におよぶのですが、例として蕪村と芭蕉の句を上げています。


蕭条(しょうじょう)として 石に日の入る 枯野かな  蕪村

あかあかと 日はつれなくも 秋の風  芭蕉


どうでしょうか?句の入り口に硬さ、鋭さを感じる蕪村に対してじんわりと染み入ってくる芭蕉の感じ。

渡部先生も両者の優劣の比較ではないと言っておられますが、こころへの響き方が大和言葉と外来語(ここでは漢語)

でかなり違います。

この両者への幸田露伴の評論が添えられているのですが、こうあります。

「蕪村は相撲で言えば手取りの句ばかり作っていたので、巧はすなわち巧であっても大力ではない」

加えて露伴が落語の事引き合いに語ります。

「芸術はこしらえるものではない、出来るものだというのはどうも本当で、山岡鉄舟が(落語家の)円朝の話を聞いた

後で円朝を呼んで、なるほどあんたの話は実にうまいが、一つ聞かせてもらいたいものがある。それは桃太郎の昔話だ。

わしが子供の頃にしてもらって、桃太郎の話ほど面白いと思ったものはないが、どうだ、桃太郎の話を面白く聞かせて

くれんか?と言われて、流石の円朝も恐れ入って、は、お恥ずかしゅうございますと引き下がった。それから円朝の芸

は上がったので、塩原多助なんか馬と別れる時に、青よ、というと実際聞いていて涙が流れた。蕪村を関心しているの

は蕪村だけの句が作れないでいる者の事で、句中いずれかの字を伏せておいても、それ相応の力量のある者から見れば

大抵当たる。蕪村の句は当てやすい。そうゆうふうに拵えている、、、、」

逆説的ですが、拵えているとは意図している、計算している、という事でしょうか。

俳句は四季にある環境と自分のこころの移ろい、そして移ろわぬこころの奥底にある神性を言葉を使い描写する絵画の

ような物と自分は思っています。

その描写に我があってはならないという事、その我は仏教でいう偽我という事までを喝破している。。

という、感銘を学生時代の自分は受けたのです。

大和言葉で語る時、外来語が多く出る時、意識してみるのも面白く。

今、情報があふれている社会でそれを意識してみる事で新しい視点が持てるかもしれません。

それでは、また。




UNBUILT TAKEO KIKUCHIについて

おすすめコンテンツ

ABOUT 『アンビルト タケオ キクチ』とは?
オススメスタイル紹介一覧
それぞれのアンビルト

UNBUILT TAKEO KIKUCHI IGTV

・日時:毎週木曜日20:30〜
・URL:UNBUILT TAKEO KIKUCHI Instagram

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー